日韓関係のこじれから学ぶ

統治行為とは、直接国家統治の基本に関わる高度に政治性のある国家行為のことだ。そして、統治行為論とは、法律的な判断を下すことが可能であっても司法審査権は及ばないとする理論だそうだ。 日本と韓国において統治行為論そのものに対する考え方が異なるのではないか。三権分立の運用方法が違うのではないか。そういう基本的な食い違いがあるなら、そもそも議論が噛み合うことはあり得ない。 日本における多数説は、統治行為の観念とその適用される領域の存在を認めつつ、包括的・一般的にではなく、個々の行為ごとに吟味を行い、個別的・実質的論拠を十分に示すことができる場合にのみこれを認め得るとする限定的肯定説だそうだ。 韓国では過去の政権が外国政府と結んだ条約も批判され、大法院が政府から独立した審査を行うことが認められている。同じく自由主義経済と民主主義を掲げていても、かなり異なった社会体制とみるべきではないだろうか。まずは互いに異った社会体制であることを認める必要がある。 面倒なことだが、そういう作業を行わないと生産的な議論はできない、感情的なやり取りの連鎖に陥ってしまう。そんなことみなわかっているさ、と言われそうだが、浅学を顧みずに書いておく。今回の日韓関係のこじれから僕が学習したことだ。 Advertisements

消去法で選ぶ参院選

いつになく盛り上がらない参院選だが、約20年に及ぶ自民・公明両党の連立政権が人々の政治不信と政治離れを増幅しているといえないだろうか。憲法問題で共闘できないなら連立すべきでないだろう。その二党が選挙協力していることが、政治の争点をわかりにくくし、選挙ひいては政治を一般市民から遠ざけている。他方、それは自公にとって都合のいいことなのだ。低い投票率は政治総体に対する国民の消極的な否定だということをわかっていながら嗤っている者がいる。候補者と政党を消去法で選ぶしかない閉塞感に覆われた日本社会を思う。 2014年11月7日付け nippon.com の記事が、自公連立の経緯についてよく整理している。 ——————– 翌朝 FB に次の短文を投稿した。 選挙で何が変わるのだろう? この国の政治制度と人々の政治意識のもとでは何も変わらないのではないか。低い投票率は一般市民の選挙と政治に対する消極的な否定の表明である。 https://www.asahi.com/senkyo/senkyo2019/san/kaihyo/B13.html

U先生の訃報

U先生の訃報に接し、昔のことを思い出す。70年代初めに朝鮮語を学んだとき(「韓国語」という呼称はなかった)、先生の著『カドリール式朝鮮語1600』をいつもカバンに入れていた、カセットテープも繰り返し聞いた。 初めてお会いしたのは1980-81年だったと思う。日本言語学会の事務局があった(?)東外大AA言語研究所を訪れた。先生の本で学んだことをお伝えすると、最近作られたというKDD 職員研修用の朝鮮語学習教材をくださった。 1998-99年には高校の韓国語教員のための短期研修の主任講師、2008-09年にはクムホアシアナ杯韓国語高校生大会の審査委員長になっていただいた。いずれも僕が立ち上げに関わった事業だ。10年には韓国文化院主催のシンポジウムでご一緒させていただいた。写真はそのときのものだ。先生の笑顔はいつも周りの人に独特の温もりを与えてくださった。 2016-18年、韓国人の友人とともに新大久保からほど遠からぬところにある先生のご自宅にも何度か伺った。折にふれ、韓国語教育関連の事業についてご相談させていただいたことが、つい先日のことのように思い出される。 https://www.reitaku-u.ac.jp/2019/07/09/70006 親しくしていただいた方が亡くなると、決まって方丈記の冒頭の一節を思い出す。高校生のとき暗記したものだ。 ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず、よどみに浮かぶうたかた(泡沫)はかつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし、世の中にある人とすみか(住処)とまたかくの如し [鴨長明(1155-1216)『方丈記』冒頭] Incessant is the change of water where the stream glides on… Read more U先生の訃報

周囲に配慮しない人々

最近気になっていることの一つに、周囲に対する感官を欠いた人々の増加がある。混み合った電車でザックを背負ってスマホに見入る人や大きなバッグを肩に掛けてスマホを操作する人が多い。彼らのザックやバッグは周囲の人に当たって迷惑を及ぼすのだが、お構いなしだ。その姿は背中にランドセルを背負った小学生を思い出させる。 車内放送で繰り返し注意をしても一向に頓着しない。自己の世界に没入し、周囲のことは視野に入らないのだ。他の人々など存在しないかのようだ。そもそも周囲という感覚が欠落しているのかもしれない。 周囲に構わず、大きな声で話す人々も少なからずいる。若いころから人一倍騒音に神経質な僕だけの問題かもしれないが、そういう日本人が増えたように思う。 いずれも周囲に対する配慮を欠いた人々だが、僕のような者にはとても煩わしい。こんなことを言うと、年を取っただけと言われそうだが、そうではない。日本社会が変化しているのだ。

選挙前に憲法の前文を読む

憲法の前文は憲法の一部であり、本文と同じように法規範性を持つという(裁判規範性は持たない)。以下に抜粋した前文の部分が第9条を支える精神を表現していると思う。 昨今の9条をめぐる改憲論議(議論になっていないが)は本来、憲法前文の修正を伴うべきものであり、憲法が拠って立つ精神的土台そのものに関わる変更ではないか。 [以下 Wikipedia より転載] (前略)  日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。(後略) We, the Japanese people, desire peace for all time and deeply conscious of… Read more 選挙前に憲法の前文を読む

変わりゆく渋谷駅周辺

ここ数年のあいだに渋谷駅とその周辺が急速に変貌している。僕が1970年によく通過したところだ。大学への通学で半年ほど、その後、駅近くの書店で3ヵ月アルバイトしたからだ。もう50年前のことだ。 90年代半ばに夜間の大学院に通ったときも渋谷駅と表参道のあいだを歩いたものだ。とくに愛着があるわけではないが、どこか懐かしい。その駅の周辺がまったくといっていいほど変わってしまった。 自分の記憶が壊されるような不思議な感官に襲われることがある。認知症の母が家の近所を通るたびに口にする「こんな家はなかったのにね」「ここはどこなの」という言葉の感官も似かよったものなのだろう。 国道246に架かる歩道橋の上から 山手線内回り渋谷駅ホームから 上の写真の夜景

過去の枠組み?

「過去の枠組みでは捉えることができない日韓の新潮流」と題した呉泰奎(オテギュ)氏の寄稿記事にある「過去の枠組み」って何だろう。